30代最後の日に、この10年を振り返る


いよいよ30代最後の日となりました。完全に自分向けなのですが、この10年を振り返ってみます。あっという間のようで、結構色々あったなぁ。

30歳なりたては、育休明けでした。(2005-06)

30歳の誕生日の時には、今10歳の長女のパパになりたて。そして3ヶ月半とった育児休業から明けて10日目のことでした。

ちなみに、育休前の4月、長女が生後3週間の時に、育休取得予定の男性としてNHK取材を受けました(すくすく子育て)。
「育休予定者」でも取材の話が来るほど、世の中で育休を取る男性がまだ少なかった頃でした。(その後、有給の育休を設定するようになって数は増えた)

復帰したその日から、1つ下の後輩が3週間かけて出来なかった(組み込みの)プログラムのあるモジュール部分を1週間で仕上げて、と言われていきなりフルスロットルだったのが懐かしいです。(仕上げました)

まだその時は、A3研究所という秘密研究所の中に居ました。仕事は10年後の未来を作る仕事でした。それ以上は「http://www.amazon.co.jp/dp/4062760657」にて。

誕生日は妻が鎌倉の保養所で祝ってくれました


10月に10泊11日かけて沖縄に行きました。その時の内容は
当時の日記(http://d.hatena.ne.jp/so-so/200510
にて様々載せています。


それまでは風邪一つひかなかった長女でしたが、11月に最初の風邪をひいてからは保育園でもらってくることもらってくること、翌2月には保育園に行けた日よりも休んだ日の方が多かったほどでした。(2月第1土曜日の発表会で、インフルエンザとアデノウイルスを両方もらい、時間差で発病したのが痛かった・・・)

双方の両親の助けなしには乗りきれませんでしたね。
この時から、両方の両親+うちの家族で1年に1回は旅行に行くことにしています。
双方の両親同士の関係性も、共働きを支える大事なことだと実感しています。


6月には中学からの友人(&妻とも大学から友人)がハワイで結婚式を挙げ、一家をあげて参列しに行きました。結局、妻と行った海外旅行はそれ以来10年近くも無いとは思ってもみませんでしたが。

31歳(2006-7)ふり返れば一番平和な歳だったか

この後に比べれば思えば平穏な半年でした。


2月にTBSに取材していただきました。
半日くらい取材されて15分くらいのコーナー。フランスの育児支援との対比でした。
今思えば9年前と比べると今は随分と拡充されましたね。


・・・といっても、正直保育園代に比べたら比較にならないほど少なく、受験にかかる費用に比べるとさらに少ないですが。
というか、何より、我々より10歳低い世代が非正規労働が多いことを何とかしないと、焼け石に水だと思います。


2007年7月7日は、義妹一家との旅行で新潟で迎え、その晩には上の妹のオーストラリア留学壮行会を実家近くで行いました。


31歳の最後に、杉田に引っ越しました。

杉田八幡宮の門前通りで、着いてすぐに8月の例大祭があり家の前に夜店が並ぶという光景に驚きました。

32歳(2007-08)杉田引越し〜ママチャリGP優勝〜次女誕生〜社内失業

32歳の当初はとにかく引っ越した杉田での暮らしを構築する時期でしたが、今思えばまだ子供も1人で、そこにお互いの両親が手伝いに来てくれる頻度が増え、一番楽な時期でした(妻は妊婦で大変だったと思いますが)。

2008年は、杉田の家で迎えました。家が杉田八幡宮の参道沿いなので既にこの時点では八幡宮に並ぶ列が家を通り越しており、一度家から遠ざかった後、列に並んでいる間に自宅前を通って参拝するという二度とないであろう体験が出来ました。
そして、この年にスーパーママチャリグランプリの第一回が行われ、優勝しました。
(その時の様子は それも正解ですにて。ナニコレ珍百景や、とくダネ!でゴール&胴上げシーンが映りました)

2月末に次女が生まれました。萌文理(めもり)と名付けました萠文理への一番最初の手紙 - それも正解です。まぁ、色々一番言われる名前ですが、本人は気に入っているし、少なくともよく育ってくれています。


一方、仕事の方では、研究所が閉鎖され、社内失業状態に。様々な手探りをしていた時期です。ここには書けない色々な制約があり、身動きが取れない同僚たちも多くいました。



そんな中、中学の同級生が中途で同じ会社に入ってきたのを機に、社内SNSを再開。それに合わせ、それまでの5年間、社内であまり交流していなかった反動か、社内を歩き回りまくりました。


まるでそれの背中を押すように、近所の「おかしのまちおか」で、パティシエ・タカギ監修の「高木キットカット」の大箱が、定価1000円のところが300円で売り出されていました。
社内&しかもSNSであいさつしてからとはいえ、相手にお時間をいただくわけですから、ちょうどいい手土産としていくつも買っては相手に配りました。(10個以上は買ったはず)


最近はTRIZを使って何かしら相手にGiveできるものがあるので、手土産を持つことはほとんどなくなりましたが、当時は「自分のしてきた仕事のうち直近5年間分は一切しゃべれない」という制約があった中での交流でしたので、この手土産はとても役立ちました。


32才最後のお盆に、鶴見線に乗りに行ったのはいい思い出。

33歳(2008-09)流しのブレスト屋宣言〜厚木勤務〜選挙

33歳の誕生日の翌日、所属する部署が「業務推進部」という名になりました。これを機に、流しのブレスト屋を宣言しました。

すると、それを聞いた今の兼務先上司である池田さんが「TRIZというものがある」と発明原理40の話を1〜2時間してくれました。そして参考図書を貸してくれました。
これが私のTRIZとの最初の出会いです。

今思えば、30歳ではなく、この年が、私にとっての「而立」にあたると言えそうです。
#30歳の時は30歳でパパ1年目として「而立だなぁ」と思っていましたが。


これは偶然かもしれませんが、ちょうど今、harmoを行っている中学からの同級生も、その活動を始めました。
同い年の幼馴染(父の代からの友人)も、国政に立候補することを決めました。


その幼馴染が1駅隣に引っ越してきて、何度か手伝いには行ったのですが、1歳の次女がよく体調を崩し、思ったほど手伝いには行けなかったのが残念です。

また、同じく妻が9月で復職し、いよいよ「2児持ち共働き」が本格的に始まりました。

1月にはママチャリグランプリで連覇を狙いましたが準優勝。
前回優勝チームということで日本テレビの取材を受けていました(が、私が映ったのは最後のシーンのみ)

そして33歳半ばの2009年2月、職場が決まり厚木勤務となりました。
妻もリーマンショックで縮小になるのを機に、4月から厚木勤務にしてくれ、夫婦そろって厚木に横浜から通いました。


それから厚木で家さがしをし(休みの日にも厚木まで行くのは大変でした・・・)
33才の最後のお盆、厚木に引っ越しました。思えば、杉田に住んだ2年間は、半年ごとに「新生活」が始まる、あわただしい日々でした。

  • 最初の半年:杉田に引っ越しての新生活
  • 次の半年:次女誕生。2児持ち新生活
  • 3番目の半年:妻復職、2児持ち共働き新生活
  • 最後の半年:厚木勤務になり、横浜から通うのは大変&家さがし


引っ越した翌日に、衆議院解散総選挙の公示日を迎え、引越し荷物もそこそこに、平日に3日、土日も旅行先から手伝いに行くことになりました。

34歳(2009-10)職住近接のメリットを最大に享受

34歳の誕生日は、その幼馴染の選挙事務所で迎えていました。
8月30日の選挙結果が、あまりの接戦だったため、彼の選挙区だけ結果が出ておらず、日をまたぎました。

出来る限りで応援したのですが、善戦及ばず、数百票差で敗れ、比例復活となりました。


この時戦った相手が、誰あろう、今は知らぬ人の居ない安倍内閣官房長官「菅よしひで氏」です。


数百票差ですから、もしも、選挙か1ヶ月早くて、私が2週間みっちり行けていれば逆転したかもしれない差です。たしか、関東地方で自民党の比例復活は無かったと思うので、ここで議席を失っていたら菅氏がそう簡単に官房長官となっていることもなかったのでは、と思うと今でも色々思うところがあります。(官房長官になったということは首相になる可能性もそれなりにあるわけで、その時はますます色々思うんだろうなぁ)



この時引っ越した厚木の家が、結婚してから半分以上の月日を棲む家となっています


厚木に引っ越すと、職住接近。非常に楽でした。今思い出しても一番楽な時期だったかもしれません。
この年大流行した新型インフルエンザに娘2人がかかった時にも、「休み2日、在宅勤務2日、外出2日」ということにして、週末合わせて丸々1週間、両親たちの助けなしに家で娘達を見て乗り切ることが出来たほどでした。


3月までは妻の会社の保育園に通わせ、妻が送迎、僕が朝食も夕食も作っていました。

何度か、妻の都合がつかず、5kmくらい先の妻の会社の保育園まで3人乗り自転車でお迎えに行き、往復したのはいい思い出です。
その脚力も少し貢献したのか、ママチャリグランプリで2度目の優勝を果たしました。


仕事では、あちこち歩き回ってばかりでしたのでよく「高木さんは何の仕事をしてるのですか?」と言われたので、発明報告書を13件提出し、そのR&D部門での「発明最多賞」を2位にダブルスコアをつけて獲得しました。



4月からは、逆に私の会社の「孫」ともいえる「あゆのこ」保育園に通うようになり、行きにまた3人乗り自転車に長女次女を載せて通う日々となりました。

帰りにOKストアで食材を買い(7時過ぎにはよく刺身が半額になっていました)、夕食を作って妻と子供の帰りを待っていました。


また、発明最多賞の影響で職場の特許委員となり、TRIZについて自習することが多くなりました。
加えて、職場が事業部内R&D部門だったのが、本社全体の技術開発本部内に移管され、R&D部門としての雲行きが若干怪しくなってきたのもこの頃です(既に免疫はありましたが)

娘達が発熱しても、家の近くに、ほとんどならばないのに腕のいい小児科があり、それも楽だったなぁ。


35歳(2010-2011)転機の年。TRIZ本格学習&harmo足つっこみ&大震災

転職活動では一つの壁と言われる35歳になって少しした10月になってから、TRIZのもう1人の師匠である永瀬さんによるTRIZ塾が始まりました。

名目上は1週間に1度、金曜午後の半日(工数0.1)だけでしたが、宿題も合わせると実質的にはその3倍の工数0.3くらいはかけていました。

それを半年間行って、発明原理以外のTRIZの全体像をようやく学ぶことが出来ました。
とはいっても、まだまだTRIZ全体の奥深さに比べれば、私も駆け出しですが。


その研修の中で、発明シンボルを使っているところを見せたところ、永瀬さんから「それ40個全部作らんね?(作らないの?)」と言われ、奮起して40個作り切りました。


2010年の終わりごろからは、もう一つの転機が。中学からの同級生が社内で始めた電子お薬手帳プロジェクトにアングラで協力し始めました。


2011年1月に開講された、保険医療大学院によるレセプト分析の遠隔講座を受講。
5月にレセプトを3ヶ月分手に入れ、レセプト分析を始めました。



2011年といえばやはり東日本大震災でしょう。


都内では停電が無かったようですが、厚木では何回も計画停電がありました。
出社して2時間で帰宅。電気がつかない家で過ごすというのもなかなか不安感をあおるものがありました。
2週間くらいしたところで、厚木市内で交通事故が起きたのを境になくなりましたが・・・


そんな中の3月20日に名古屋での結婚式に招かれていました。
実は、新郎から友人スピーチを頼まれておりまして、小田急が小田原まで行くか当日まではっきりしなかったため、辿りつけるか非常にひやひやしながらの往路でした。無事に辿りついて大役を果たせてどっと疲れました(帰りは高速バスを使いました)


しかし、もっと大変だったのは夏でした。
妻の会社が、電力需要平準化に協力するということで、「土日出勤、木金休暇」とすることを打ちだしました。
専業主婦家庭ならともかく、保育園は普通に土日休暇ですから、社員は良くとも、社員の家族にとっては非常に×××でした。



一方、コクヨに勤める義理の従妹が結婚。ソニーコクヨの交流を少しずつ始めました。
また、妻の会社との交流会も企画、大盛況のうちに終えることができました。


36歳(2011-2012)アイデアリエータ〜結婚式〜政変

36歳の誕生日はそんな休まらない土日生活の中で迎えたと思います。


10月から社内で兼務してトリーズを用いたアイデア創出活動を開始。お陰様で好評を得、翌4月には正式に「アイデアリエータ」の称号をいただきました。


2月末〜3月初週にはバングラデシュで妹が結婚式。1週間かけて3回の結婚式が行われました。
結婚してから初めて、家を3泊以上空けました。
実は3人目となる長男をお腹に授かったタイミングで、妻はとても大変でした。ありがたいことです。


その他にも、2012年前半は結婚式ラッシュでした。

  • 友人から5人が結婚し、
  • そのうち4組が結婚式を挙げ
  • そのうち3つからご招待をいただき
  • そのうち2回の披露宴で友人代表スピーチを拝命いたしました。


一方、2012年4月には職場で政変があり、また色々と仕事の状況が不安定になりました。(よりその中心部にいた同期2人はとても大変な中、乗り越えていったのは素晴らしいことです)


新しいことを目指す身にはなかなか大変な状況になり、社内での各種アングラ活動にはより注力することになりました。

そのうちの1つでまいた種の1つを義従妹と後輩が「品モノラボ」という形で結実させ、それがさらにはSAPという形で発展していったのは、「花粉の運び屋」冥利につきるものがありました。


37歳(2012-2013)両足捻挫〜シンボル発表〜長男誕生〜

38歳(2013-2014)執筆にあけくれた1年
 この2年間については、http://d.hatena.ne.jp/so-so/20140830 に詳しく載せていますので割愛します。

 ただ、そこには敢えて載せなかった仕事関係の話。2012年6月〜2013年4月にかけての8ヶ月間で、私の所属する部の名前も部長も4回変わりました。
 

2013年4月からも色々ありましたが、それに関しては、今も続く壮大な物語なのでいつか書くこともあるでしょう。ハッピーエンドになるよう、この休み中も家から仕事したり、誕生日の明日も家から遠隔会議です^^;


39歳(2014-2015)

前半については http://d.hatena.ne.jp/so-so/20141231にて
その後に関しては、ちょっと時間切れですね。
今日、午前10時から午後6時過ぎまで下2人の面倒を見ていたので書けませんでした^^;

30代最後の晩餐は、100g99円だった豚カルビ(ただしイベリコ豚。広告の品)、かと思いきや、それを食べた後、長男が「ピーマンにソーセージを挟んだもの」を作ってくれて、それになりました。


さぁ、30代もあと30分足らずか・・・(直しているうちにあと10分少し)

もしもここまで読んで下さっている方が居らっしゃいましたら、本当にありがとうございました。


そんな皆様のお蔭で、この不安定な世の中で3人の子供を育てつつ、世の中に価値を生み出せております