戦争と外交と東シナ海油田

他の人の日記めぐりをしていて、8/15に戦争を考えている人が数人いたので、せっかくの機会だから少し考えてみた。


一時は、ゴーマニズム宣言(&戦争論)なんかも読んでいて、考えが右寄りになったこともあるが、過去の戦争に関しては

  1. 戦略的に間違っていたことは認めよう。
  2. しかし今の価値観だけで議論/否定するのは失礼。当時の状況、倫理観から敬意をもって検証すべき。
  3. 戦争の悲惨さだけをアピールするのは洗脳でしかない。自分で考える頭が育たない。「どっちか一方に突っ込む」のは日本の欠点

未来への提言としては

  1. 戦争とは独立に存在するものではなく、外交の延長線上にあるものであることを理解し、アドリブ意識をみな持とう
  2. 人は人を殺しちゃいけない/人の死、ということをまず身近で実感させよう
  3. 日本が世界の中でどれだけの生活レベルを持ってしまっているかを自覚させよう


といったところか。


戦争論とかの本では「ハル・ノート」がつきつけられて仕方なかった状況があった。というような描かれ方をしているが、さらにハル・ノートより前の段階というのもあったはずで、そこから戦略的に動いていけば「全面戦争」は逃れられたかもしれない。なのでハルノート(に代表されるABCD包囲網のような締め付け)で仕方なかったから戦争した、というのはちょっと賛成できない。


もちろん、当時のいわゆる欧米列強にとってみればアジアは植民地の対象としか見ていなかったわけで、あの数十年スパンではああやって急速に軍事化するしかなかっただろう。多分、外交で対等にしてもらおうとしてもしてもらえなかっただろうから。とはいえ、その軍事化の途上、日中戦争であまりにおいしく儲けすぎて、日本国民は「対外戦争は勝てばおいしい」って誤解しちゃったんだろうなぁ、と思う。日露戦争でのギリギリの外交の勝利(というか優勢引き分け)にあれだけ文句言っているんだし。なので「戦争」をある程度起こす必要はあったかもしれないけど、「戦争しつづけるしかなかった」わけではないと思う。



とまあ、過去の話はここまでにして。未来の話。太平洋戦争、この「戦争し続けてしまった」というところに、現在の日本外交にも残っている「日本人の性格」というのが現れていてまずいと思う。それは、


「一度決めたらそれを(途中検証の結果や善悪抜きに)やり通すことが尊い!」


という風潮(または、妙な武士道精神)である。この時期だと身体を壊してまで投げ続ける甲子園球児(10年くらい前の平安の川口は残念だった・・・)がその代表だけど、大きなところでもこの風潮は「終身雇用制度」という日本の文化を生み(これは高度成長期には「労使間の不毛な衝突」を少なく済ませたことで日本の競争力を高めたが)、「建設途中で無駄だと分かっている河口堰」とか「ほとんど通らない高速道路」とか、色々な無駄としても姿を現す。



無論、「腹八分目の男」である僕としては「やり通すこと」は尊いこととは思うが、日本全体としては“途中検証の結果”とか“状況の変化”に応じてきちんと「方針転換」はしてほしいものである。しかし現在のアメリカ追従外交や、「拉致問題扱いのセンス」、「北方領土は4島返還のみ」などなど、今でもその体質は変わらないと思う。




以上から未来への提言としては

  1. 戦争とは独立に存在するものではなく、外交の延長線上にあるものであることを理解し、アドリブ意識をみな持とう
  2. 人は人を殺しちゃいけない/人の死、ということをまず身近で実感させよう
  3. 日本が世界の中でどれだけの生活レベルを持ってしまっているかを自覚させよう


である。
戦争というものは軍部の独走だけの単独で起きるものではなく、「国と国との関係」の中で、利害関係や、他国からの包囲網、相手国の自国に対しての認識、といったもろもろの状態から、「遷移する状態の1つ」としての戦争状態があり、「戦争は勝負がつくまでするものとは限らない(むしろその方が稀)」で、「戦争は起こさないのと同じくらい、“止め方”が重要」という教育をすべきだと思う。


そしてこれは、ビジネスでも同じと考える。「起業すること」ばかりが華々しくクローズアップされているけれども、事業で成功して世の中にプラスになるには、「どう事業をたたむか/どの段階になったら撤退するか」の“クロージングシナリオ”も重要である。「倒産」とか「民事再生法適用」とか、最後の尻拭いは国任せ、というイメージよりも、「いかにうまくある事業から撤退したか」というのも地味だけど取り上げていく必要があるだろう(プロジェクトXとかで)



そして2点目。「戦争は悲惨だからしちゃだめ/いや仕方なかった」の議論より先に、「人の死とはこんなに悲しいものなんだ」という根源的なことを子供が実感する場を作ることが必要だと思う。それ無しに今の子供に「戦争は悲惨なんだ」と白黒の映画を見せたって実感は沸かないだろう。そしてそれは、戦争防止よりももっと現実に増えている「猟奇的殺人(幼児殺害とかもそうだと思う)」への防止にも効果があると思う。


一昔前なら祖父母(曽祖父母)と一緒に住んでいたり、沢山居る兄弟のうち何人かが死んだりして、幼少期に「身近な人の死」に自然に触れて、「残された家族の悲しみ」を一緒に体験する機会があった。しかし現在の核家族化の状況では子供の時には機会が少ない
と思う。とはいえ、二世代/三世代住宅は色々な事情で難しいだろうから、ここはひとつ「遠くの親戚より近くの他人」ということで、近くの老人ホーム/老人サークルとの交流を幼稚園/小学校はより進めた方がいいと思う。まあ、「遠からず死んでしまうこと」ということを学習の前提にするというのは、ものすごく論議を呼びそうだけれども、それは人として避けえないことだし、「人はいつか死ぬ」というのは人生を考えるときに必要不可欠なものと思う(事業をする際のクロージングシナリオの重要性にも似ている)。そして、それ以上に「異なる世代の人と当たり前のように話をする」というのは意義あることだ。




3点目、これは2点目の「異なる世代」の話を受け入れるよりも実感するのはもっと難しいことだけど、世の中の9割の人が1日1ドル以下ですごしているとか、エネルギーの消費量とか、そういうことが世界平均よりずいぶん多いことを知っておくことは、「福祉政策が北欧より遅れている」とか、「アメリカよりも住環境が悪い」とかを知っていることよりもずっと重要だと思う。



そしてこのあたりのことを国民がきちんと身に着けておかないといけない火種が今くすぶっていると思う。東シナ海の油田である。これに比べたら竹島/独島の問題や、北方領土の話は小さい。この中国との「東シナ海の油田をかけた交渉」というものはこの先数十年にわたって日中間の火種として危険物だと思う。これに蓋をして目を反らしたままだと、かつての過ちを繰り返すことになりかねないと考える。



#ふぅ、育休最終日に長くなってしまった。こんなに長く書くのはしばらくないかも。