なぜ育児休業を? その3 Google以後の世界 〜 知識のサラダなら誰でも作れる

(第1〜2回は5/13)
さて、この前の回までは、考えてみると、育児休業は経済的・スキル的に合わない、と結論付けるのも止むなし。というところまででした。実際、「取得したかったけれども、経済的なことを考えると取れなかった。」という方もいらっしゃいました。


しかし、この話はすべて、「何十年か前からの社会がそのまま続いていく」ということが前提での計算だと僕は考えています。
しかし多分、Google以後、「知識のあり方」が変わり、さらにインド・中国での知的労働者の増加によって、この知価社会(byドラッカー)での「知的労働者のあり方」が変わってしまったのではないかと。とするとこれまでの打算は破算になってしまうのではないか?という危惧が僕にはあります。今回はその前半の話。



世の中ではよく、IT革命という言葉が使われます。農業革命、産業革命、IT革命という三拍子で。
ITは確かに世の中を変えましたが、IT単体だった段階では、やはりOA(Office Automation)の域を超えていなかったと思います。つまり、「それまで手作業で行っていたこと」を「コンピュータという機械で置き換えた」だけ、ということです。



僕の中では、IT革命というよりは、Google革命な気がします。
それまでもyahooやgooなどの検索エンジンはありましたが、提示されるページに当たり外れが大きく、「何かを調べてみる/何かを知る」ときの手段としては物足りないものでした。しかし、Google以後は「ぐぐってみる」という言葉ができたくらい、「まずはGoogleしてみる」という風潮が出てきていると思います。実際、僕も新しい分野のことを学ぶのにまずはGoogleで「○○とは」で検索してみてなんとなくのあたりをつけてから学んだりします。今後、Googleよりさらに検索性能はアップしても、下がることは無いでしょう。



かつて、「知識」は持っているだけでも価値がありました。なので、「スペシャリスト」に対しての「ジェネラリスト」という言葉や、「T字型人材」「Π字型人材」といった言葉が生まれました。
 しかし、Google以後、個人の知識ベースの世界から、膨大な情報を、誰もが同じように取得できるフラットな世界になっている。とすると、「必要な知識を持っているか?(集められるか?)」ということは多くの人ができるので価値が無くなり、その知識から「(融合・昇華して)何を新しく生み出せるか?」というレベルにならないと、“誰かからお金を払ってもらえるほど感謝される”価値にならない。と考えます。


(余談ですが、市場経済というのは、「がんばったから」給料がもらえるのではなく、「誰かにお金を払ってもらえたから」給料がいただけるわけで、その大事な基本を親は子に教える必要があると思う。“努力”だけ教えるのではなく、“基本”を教えないと。ちなみにボードゲームをすればいやでも分かることですが。不採算で平気な特殊法人などの問題の遠因にはこういったことがあると思う)


さて、このことを、アメリカに良く使われる喩え「アメリカは人種の坩堝(るつぼ)ではなく、人種のサラダボウルであった」を借りて表現するならば、
「この世界で知的労働者たるためには、“知識のサラダボウル”ではなく、“知識の坩堝”になるべきである。」
と考えるのである。



もし僕と直接仕事をしたことがある方なら、僕が異様なまでに「自分の手を動かすこと」にこだわることをご存知だと思います。それは上記のような考えがあるからなんですね。今の職場に異動したのも、そこの所長が「知識と智慧」という形で同じ方針であることが分かったからもあります(他にも理由ありますが)。



しかし、このサラダボウルと坩堝の話では、自分の意志で異動した理由にはなっても、育児休業をとる理由には足りません。「育児も自分の手で行おうと思った」なら土日で十分ですからね。



実際、ここまでの話は、異動前の2、3年位前に、ピーター・ドラッガーの「ネクスソサエティ」や堺屋太一の「知価革命」などを読んで考えたことです。一言で言えば、「ビジョンを立てて、手を動かしてスキルを貯めていけば、身体の中で融合して、何がしかのオンリーワンの人材になれるだろう」と考えたわけですね。



これに、インド人と仕事をした経験、から、これだけでは足りない、と思い始めます(5/24につづく)