だるまさんがころん・・・・

朝、次女を保育園送りし、園庭に連れて行った際の一幕

年長組さんたちが「だるまさんがころんだ」をしていた。


おに「だるまさんが ころん・・・・・だんごむし!!」


まぁよくあるギャグだろうと思っていたら・・・


視線の先には、うずくまって「だんごむし」の格好をして動かないようにしている女児たちが3名。
おいおい、かわいいじゃないか。


おに「だるまさんが ころん・・・・・スコップ!!」


え、「ストップ」の聞き間違い? かと思ったら、そこにはその3名がスコップで掘りまくる真似が眼前に。懸命さがいい。ってか動いていいの??


おに「だるまさんが ころん・・・・・ぼうし!!」


すると帽子を押さえる真似をして両手を挙げる子たち。そこでおににタッチして第一ゲーム終わり。


続いて第二ゲーム。


おに「だるまさんが ころん・・・・・テーブル!!」


とうぜん四つん這いになってテーブルをアピールする子たち。
中々芸達者である。
園庭なので手は砂だらけになるが、そんなことはおかまいなしだ。
そしてその次が・・・


おに「だるまさんが ころん・・・・・だいぶつ!!」


躊躇なくその場にあぐらになり、鎌倉大仏の禅ポーズをとる子たち。

残念ながら先に僕の腹筋がゲームオーバーw。つい大笑いしたら、

園児たち「何笑ってるの!!www」

だって、いやいやいいもの見せてもらいました。

きにせず子供達はすぐ遊びに戻り、


おに「だるまさんが ころん・・・・・だんご!!」

今度は、だんごむしではなく、だんご(というか泥団子?)を作る真似をしていましたとさ。


いやー、他人の子でもこんなにかわいいのに、娘たちも交じっていたら、きっと萌え死ぬなぁ、と思いながら保育園を後にする。またいいものもらった。

だるま・大仏・こども銀行

一方で、ふと思い浮かぶのが、最近話題の「さかもと未明」氏の記事。


まぁもう十分すぎるほど他の人から叩かれているようなので、ちょっと違う観点からの話をしたい。


さかもと未明さんは
さかもとさんは「こども銀行の残高」が少ない人なんだなぁ、と思う。
#きっと大人の「銀行の残高」は多いんだろうけど


こどもを持つ親はみな、「こどもが泣くのは当然」というマイナスが分かっているので「こどもが泣くのに理解を示す」ことができる。


でもそれは、それと対をなす「こどものかわいさ」というプラスを両方受け取っているからこそ、受け取れるマイナスなのだと思う。いわば「こども(の可愛さ)銀行の残高」があってこその話。



一方で「こどもが居ない人」はどうか? 公共交通機関などで「こどもの迷惑」のマイナスは受け取るが、この「こどもの可愛さ」のプラスは受け取れていない。そもそもそういう「可愛さ」を受け取るアンテナを育つ機会にもめぐまれていない。(私もそうだが、妻が妊婦になるまで、"車内に居る妊婦"に気付くアンテナはほとんどなかった)


こどもは「社会のもの」のはずなのに、子育てがいい意味でも悪い意味でも「親、とその親が特別に認めたもの(祖父母や保育園など)」に囲われているためだ。


例えば、前段の「だるまさんがころん・・・だいぶつ!」だって、本当は写真かビデオに撮ってお見せしたいところなのだが、今のご時世そうはいかないので、実際の可愛さの10分の1もお伝えできていないのである。


そして文字の限界として「自分が知っていることの近傍」しか伝わらないのが文字であり("雪"を見たことのない人に"雪"を言葉だけで伝えるのは至難の業である)、先程の文章では「もう"こども銀行の残高"が多い人には伝わるが、居ない人には伝わらないのである。



なので、「さかもと未明」氏の文章に僕も不快感を覚えた1人ではあるが、一方で、こどもを持つ親たちは「社会に"こどもの可愛さ"を還元しているか?」、周囲を必要以上に警戒して隔離してないか? ということもまた、自省する次第なのである。


自分以外の人の「こども銀行」にもプラスを与えて行きたいな、と思うのである。

(余談:さかもと未明氏、今ふと調べたら、厚木高校出身なのかぁ)