だるま・大仏・こども銀行

一方で、ふと思い浮かぶのが、最近話題の「さかもと未明」氏の記事。


まぁもう十分すぎるほど他の人から叩かれているようなので、ちょっと違う観点からの話をしたい。


さかもと未明さんは
さかもとさんは「こども銀行の残高」が少ない人なんだなぁ、と思う。
#きっと大人の「銀行の残高」は多いんだろうけど


こどもを持つ親はみな、「こどもが泣くのは当然」というマイナスが分かっているので「こどもが泣くのに理解を示す」ことができる。


でもそれは、それと対をなす「こどものかわいさ」というプラスを両方受け取っているからこそ、受け取れるマイナスなのだと思う。いわば「こども(の可愛さ)銀行の残高」があってこその話。



一方で「こどもが居ない人」はどうか? 公共交通機関などで「こどもの迷惑」のマイナスは受け取るが、この「こどもの可愛さ」のプラスは受け取れていない。そもそもそういう「可愛さ」を受け取るアンテナを育つ機会にもめぐまれていない。(私もそうだが、妻が妊婦になるまで、"車内に居る妊婦"に気付くアンテナはほとんどなかった)


こどもは「社会のもの」のはずなのに、子育てがいい意味でも悪い意味でも「親、とその親が特別に認めたもの(祖父母や保育園など)」に囲われているためだ。


例えば、前段の「だるまさんがころん・・・だいぶつ!」だって、本当は写真かビデオに撮ってお見せしたいところなのだが、今のご時世そうはいかないので、実際の可愛さの10分の1もお伝えできていないのである。


そして文字の限界として「自分が知っていることの近傍」しか伝わらないのが文字であり("雪"を見たことのない人に"雪"を言葉だけで伝えるのは至難の業である)、先程の文章では「もう"こども銀行の残高"が多い人には伝わるが、居ない人には伝わらないのである。



なので、「さかもと未明」氏の文章に僕も不快感を覚えた1人ではあるが、一方で、こどもを持つ親たちは「社会に"こどもの可愛さ"を還元しているか?」、周囲を必要以上に警戒して隔離してないか? ということもまた、自省する次第なのである。


自分以外の人の「こども銀行」にもプラスを与えて行きたいな、と思うのである。

(余談:さかもと未明氏、今ふと調べたら、厚木高校出身なのかぁ)