ママチャリと荒天と長い箸

ママチャリGPを振り返ると、子供のころ、親から聞いた話で印象に残っている話の一つを思い出した。それは「天国と地獄では両方とても長い箸を使っている」という話である。地獄では自分のお膳をその長い箸で食べようとするから、とても食べにくく、みな醜く争っている。だけど天国ではそのお箸で向かいの人に食べさせてあげるので皆Happyだ、というお話だった。

これと内田樹さんの次の文章を合わせるとママチャリGPがなぜ魅力的なのかの一部が言語化できた気がする。
人災の構図と「荒天型」の人間について

今年も富士スピードウェイFSW)は好天に恵まれた。第一回の雨の日以来、毎年のように「今年は一番あたたかくて過ごしやすいね」と言っている気がする。まさか地球温暖化が急速に進行しているわけでもなかろう。実感として、「その日を心から楽しみにしている人のパワーの総和」と天気には相関があると感じているが、個人的感想なので、それは横に置こう。


ママチャリGP当日の富士スピードウェイは、好天の中であっても、過酷な状況である。普段過ごしているところに比べれば極寒の地&ママチャリ&急坂、という「やや荒天」気味の状況に加え、兵站好きなら分かる通り「物資の手近な調達元がない」「建物の基本構想とは外れた利用をしている(融通が利かない)」「時間が意外にない」「人が多い(場所がない。慢性的リソース不足)」とにかく「ないないづくし」の場なのである。


するとどうなるか、そういった環境に適応できる集団だけがリピーターになれる。「用意はできるだけ他の人任せ」な人ではなく、「自分にできることがないか常に意識している」メンバーが多くを占めるグループだけが参加を重ねている。場がだんだんといいものに醸成されていく。


一方で普通の場だとどうなるか。自分はとあるイベントの主催者側に参加し、数百人規模から千数百人規模へと成長する中を体験した。そしてイベントに来場する人が「共に創る参加者」主体から「対価を求めるお客」主体になってしまうと途端にイベントが変質してしまうのを目の当たりにした。それに比べ2万人規模の大会がこうした高いレベルで運営できているのは奇跡のようにも思える。


最近のイベントは主催者側に「事故のないこと」の責任が問われる。取り締まる方からすればその方が管理しやすいからだ。でも、主催者側が最善の努力をとりつつも「でも怪我や各種の不足は個人の責任です」ということが好意的に捉えられるイベントというものがやはりこの国には不足しているのだろうと思う。


ママチャリGPはその数少ない大会であり、大会参加者にありがとうを述べるとともに、主催者に惜しみない尊敬と称賛を贈りたいと思う。