アナクロ乞食とデジタル甲斐性


日本で「甲斐性」という言葉自体は聞かれなくなって久しいですが、「自分がもらう/得することばっかり考えてる人(ネットでもクレクレ君とか乞食と呼ばれる)」と、「誰かにあげることを楽しみにしている人(甲斐性な人)」とでは、人生に多くの差が出る世界がすでにでき始めているし、そうした動きが「国の在り方」をそろそろ変えてくることなんじゃないかと思っています。


IT革命といわれて久しいですが、たいていその文脈はOA(オフィスオートメーション)の流れで、「今までの何かをオートメーション(自動化)する」という話がたいがいです。いわゆる「モノの流れの効率化」「販売促進の効率化」という文脈の中にあり、ITにかかるコストは「最終的にはモノである商品で回収される」世界です。


しかし、おそらく100年スパンで歴史を見た際に革命的なことは「デジタルなものは複製がほとんどノーコスト」ということです。もう少し平たく言えば、「あげてもあげても懐が痛まない」ということです。一番身近な例でいえば、自分がネット上で入手した「デジタルな価値(情報)」をTwitterリツイートや、Facebookのシェア、誰かにURLを教える、なんてのがその1つで「相手に(教えて)あげて」も自分にはなんのコストも手持ちの減少も起きません。だからどんどん教えていきますね。


これがもし、どこかで「柿を10個手に入れてきた」とかだと、柿を誰かに1個あげるごとに手持ちは減るから、こうも気軽にその価値を誰かに渡すことは難しい。ましてや複製することも大変です。どうしても物質的にはゼロサム(誰かがプラスだと誰かがマイナス)になってしまいます。



さて、ここで今の国政のほうに目を転じてみましょう。各党、いろんなことを主張していますが、ほとんどがゼロサムな話ばかりです。

無理もありません。1960年代に高度成長し1969年にGNP2位になってからの数十年、「国政」とは「(国民が一生懸命働いて)企業が海外で稼いだ金(の上前)」をどう国民に再分配するか、という「おいしいとこどり」の世界でした。
(このあたりは、『自民党政治の終わり』http://www.amazon.co.jp/dp/448006446X に詳しい)

国民のほとんどは、「自分は日本政府に守ってもらっている」という意識ではなく「(父親/夫の)働いている企業に守ってもらっている」という意識だったと思います。

だから、政治=「国からいくら(ちょっとぜいたく品←公民館とかね。の)お金をぶんどってくるか」という認識の人が少なくない(特に年配の方や地方の方)のは無理からぬことと思います。これをここでは失礼ながらアナクロ乞食と呼ばせていただきます。

しかし、私が働いている会社をはじめ「企業活動で海外から稼いでこれない」事態になり、終身雇用が崩れ、退職世代も増え「企業」という最前線が破れ「日本政府が守る」という事態になっているのが現在です(社会保障費が膨れ上がっている)。


ついでに言うなら、FRBもユーロも日銀も何で困っているかといえば、どこも第二次世界大戦後のベビーブーマーが多いのは同じで、どこも「働いてないけどまだまだ金がかかる人」が溢れ、軒並み「老後資金の運用」で金だけ溢れて「経済の潤滑油」だったはずの金融が「潤滑油が溢れて暴走中」になってる状態だと思います。
(余談ですが金融界、デイトレーダーの人は、本人はカッコよいと思っているかもしれませんが、マクロな目で見ればFRBやEUB、日銀の横で今か今かと一番物欲しそうな顔をして、QE3とかデフレ対策とかもっともらしい名のついた札束に我先に血走って手を伸ばしている"最先端の"アナクロ乞食でしかありません)


これは「貨幣」というゼロサムなものを基軸としているから逃れられない呪縛です(戦争が恒常的だったり途上国だったりする間はうまく回るのですがそっちは困りますよね)。本当は「人間活動」というものはそんなものよりももっと多次元なものなのですが(京都にはそれが色濃く残っている)、市場主義が席巻したことでずいぶんとそれが薄まってしまいました。(この辺りは内田樹氏のblogに随所に出てきます)

一方では、前述のように「デジタルな世界」では「複製の恩恵」でゼロサムではない「甲斐性の」世界が広がり始めています。そもそも、これだけ不完全な民生機器であるコンピュータが多くの人にいきわたったのも「無償で身の回りに教えていた多くの”ちょっとパソコンに詳しい人”」による甲斐性のたまものだったりします。

その裏にはムーアの法則をはじめとした「1年半で倍」=15年で1000倍、という半導体産業のとんでもない飛躍もあります。


世界中の先進国が陥っている「価値がゼロサムな世界」を抜け出して「価値の複製が当たり前の世界」に行くために、こうして出そろってきたネットという道具。実際の普段の政治活動に使っている方も多数いました。

しかし、「選挙期間中は一切使えない」というのはまさに「悪平等」の典型のように思えます。「国政選挙」とは「平等」が目的ではなく、「国民の幸福の最大化」が目的であり、「公示等の平等」はその手段でしかないはずです。

ネットを選挙期間に使えなくする、というのは、本末転倒にしか思えないものです。それだけ「価値はゼロサムではない」という発想やアイデアを実感している人を排除するフィルターのようなものですから。

「この国の未来」を描く人には、もう少しこの「価値の複製にほとんどコストがかからない」という「デジタル甲斐性の世界」をそのビジョンに入れておいてほしいものです。

この長文をここまで読んでいただいた方は一緒に「それが分かりそうな人」を選んでほしいなぁ、と願いつつ筆をおかせていただきます。ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。