経済学の転機〜デフレに対してのリフレ議論への疑問
リフレ政策ポータルWiki
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デフレ脱却を求める署名アカウント
http://twitter.com/anti_deflation
うーん、若者の雇用をなんとかしないといけない! という危機意識と行動力は素晴らしいと思う。
そのためにデフレ脱却を声高にしているけれども、経済学者でなく、化学システム工学屋*1からみるとポイントがずれている気がします(ただ、Twitterをこういう使い方するというのは面白いとは思う)。
でも、世界(とくに先進国の内情)ってお金というリソースをいじって解決する問題なんかいな? というのが趣旨です。
先にお断りしておきますが、デフレな現状を肯定しているわけではないです。「政策的なインフレターゲット」には賛成できかねるが、デフレよりは、インフレ気味の方が、世代間調整としてはましなことだと思ってはいます。
なぜなら、ミヒャエルエンデが喝破したように、貨幣がその枠を超えた市場経済というのは「未来からの収奪」だからです。
なので、デフレ基調よりはインフレ基調の方がその罪が多少は薄れるね、という程度の消極的賛成。
老人の資産を若者側に持ってくるのにインフレは手段の一つとは思いますが、
インフレターゲットを設定するとして、鳩山家とか麻生家などの"資産家"の持ってる不動産を無理くり国が買い上げて、その上でインフレさせるならいいけど、結局は小賢しい人はうまく立ち回ってインフレの悪影響をうけなくて、大多数の(特にお金以外に注意を払っている行動者)ほど悪影響を受けてしまい、景気的便益があってもそれで図れない何かが失われそうです。
そう、言いたいのは、そもそも、今の世界はデフレとかインフレとかで語るのが正しいのかねぇ?、という話をしたいのです。
勝間さんのプレゼンも、「原料」→「生産」→「購入」という「市場経済」の枠での話になっている。
なので、この稿は「"金融""市場"経済」というものが、いよいよ世界を引っ張る主役から降りつつあるんじゃないの?、という話。きっと(金融)経済学者たちの多くは認めたがらないだろうけど。
■ 化学システム工学的に見た金融の立場
でも、化学システム工学的見地から、「お金」もこの地球上という「システム」の中の一構成要素、という引いた眼で見るとそう見えます。
単純にいえば、20世紀までは、「Mass:地球上に出回る物理的物資の量」と「Money:地球上で出回っている金融量」が、Mass>Money だったのが、1990年代以降から、お金側が溢れてMoney > Mass になったってこと。
お金という側面で見たら、「貸せる投資案件の総量 > 貸したい金額の総量」
だったのが、「貸したい金額の総量 > 貸せる投資案件の総量」
あ、絶対的な金額換算ではなくて、相対的な関係的な意味で。
これはお金に限らない話だけど、供給を数%調整することで全体をコントロールできる(支配力がある)、というのは「需要に対して供給が足りない」という大前提が必要です。
例えば、原油は需要>供給だから、OPECの生産調整は世界全体に対して一定の支配力があります。
また、一番近い例だとCO2は今回の取り決めで「でちゃう量(需要)>出せる量(供給)」だから支配力が発生したわけで、もし、劇的にCO2を削減するsomethingなり、新発見で実は「CO2を排出していい量(供給)>CO2(需要)」になったらCO2排出権というのは支配力を失います。
■ 1990年代以降、「貸したいお金」が激増した
で、現在のおそらく全ての(市場)経済理論は「お金には人間活動の世界的支配力がある」という前提に立っている(と思う。)
ここでしたいのは、1990年代以降はもうその前提が崩れたんじゃないの? という話。
産業革命以後、CO2の排出量が爆発的に増加して問題になったことはよく出てきます。
一方IT革命以後、おそらくマネーの流通量が爆発的に増えたはずであるだけど、その話はあまり前に出てこない。
#おそらく薄々は気づいているはずですが
京都議定書をシンボルとして示されたことは、製造業をおもとした人間の物質的生産活動を際限なく行うには地球は有限である、ということです。
(その萌芽は公害問題やローマクラブの指摘にさかのぼる)
同様に、既に金融は無制限に行うには地球(というか人類人口)は有限である、ということである。
京都議定書をシンボルとして、「物質的生産活動」にCAPがかぶせられた一方で、90年代以降に、2段階で、「市場に出回る金融量」は増えた。
1つは、世界的なベビーブーマーの退職。
もう1つは、ITによる「未来収奪通貨」の増加
■ 戦後60年目の転機
1つめ、世界的なベビーブーマーの退職である。
日本だと「団塊の世代」なわけだけど、日本だけじゃなくて、世界中がそうである。めでたいことに第二次世界大戦レベルの戦争が60年間起きなかったからだ。
無論、世界から紛争はなくなってはいないが、先進国で誕生したベビーブーマーたちのほとんどは戦争やそれに伴う物質欠乏で死なずに定年と、その後のを迎えた。先進国の平均寿命は右肩上がりである。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1610.html
ちなみに1950年の日本人男性の平均寿命は58歳。当時の定年は55歳だったそうで。定年後3年でお亡くなりになっていたことになる。
なので、今回の「危機」とやらを、「十年に1度の危機」とか、「百年に一度の危機」というのはおかしい。金融業界にとっちゃそうかもしれないが、むしろ、「戦後60年目の転機、ないし福音」と呼ぶべきと思う。
とにかく世界中に人類史上稀に見るほど、「お金を貸したい人と金額」が増えた、ってことは確かだと思う。
(本人に"貸したい"という故意がなくても、株でも国債でも、金融商品を買う、ってのは貸借対照表的視点で見りゃそういうこと)
■ ITによる「未来収奪通貨」と投資機会の増加
2つめ。ITによる「未来収奪通貨」と投資機会の増加
株の新規公開(IPO)とかデリバティブとか、綺麗事を言っているけれども、要は「未来に発生する価値の現在への先取り」である。未来で発生する価値を勝手に現在に値付けして、未来に勝手に貸し付けて、売ったり買ったりしているわけである。
もちろん、これらは、
- 「(貸す意味のある)投資案件の総量 > 貸したい金額の総量」
なのであれば、こうした株とかデリバティブで「貸したい金額の総量」を増やすことには意味がある。でも、前述のように金余り気味なうえに、ITで「実態のお金」よりも「流動しているお金」が激増して
- 「(貸す意味のある)投資案件の総量 < 貸したい金額の総量」
になってしまっては逆効果である。
もちろん、貸すお金ではなく、前者の「投資案件」を増量すれば意味があり、地道に成果を上げたのがマイクロクレジットのグラミン銀行である、
http://asyura.com/09/hasan64/msg/228.html
しかし逆に貸すべきでない投資案件に格付けで偽装した「偽装投資案件」の最たるものがサブプライムローン債権だったと思う。
なので、僕のサブプライムローン問題やリーマンショックへの端的な感想は
「私企業がお札をバンバン刷れるようになっちゃったら、そりゃ破たんするよね」
である。言う前でもなく、お札="債権+AAA格付け"のことである。(格付け会社は罰されないのかねぇ。)
■ 供給が容易になった「お金」に支配力は激減した
さて、そうなった世の中に対しての処方箋は、インフレとかデフレの軸で語るものなのかねぇ、というのが本稿の趣旨である。歴史を紐解くのは大事だけど、それをインフレ/デフレという観点だけで見るのはももはや片手落ちと思う。
お金というのはいまだにかなりの強制力を持っている(ように見える)ので、"議論の素材"としてはいいけれども、実はもう「支配力」というのは、以前に比べて失っているのである。
疑うなら自分の心や周囲に聞いてみたらいいと思います、将来を不安がっている人に
「今、あなたに無償で百万円渡したら将来への不安がなくなりますか?」
・・・たぶん99%Noでしょう。例外は百万円未満のサラ金借金で頭いっぱいの人?
「今、あなたに無償で一千万円渡したら将来への不安がなくなりますか?」
・・・多分9割方Noでしょう。例外は大学の学費?それも幻想ですが
「今、あなたに無償で一億円渡したら将来への不安がなくなりますか?」
・・・これなら半分超えるかもしれません。ただし政策的実現性は限りなく0と思いますが。
今、「雇用」がないことが問題ですが、その実態は「お金」で解決する話じゃないのです。
実は、「帰属先がなくなった」という問題。
戦後、地域コミュニティが崩壊して、核家族化で「家族」と「会社」が帰属先になった。
しかし、この10年、その「会社」の、"商品を作って売る"という市場に対しての永続性が否定されて
その結果として「企業による雇用=帰属先」というものがなくなっているわけです。
(もともと、会社は永続性のあるものではなかったのですが、高度成長期の奇跡で、永続性があるかのように誤解された)
なので、インフレ/デフレ論は、現代の閉塞状況にあたって的を得ていないと感じています。
■ 日経は"金融界の業界紙"。ミニコミ復活が鍵。
さて、so-soはどう思っているか。so-soの主張は別に新しいことでもなんでもない。インフレもデフレでもなく
「金融換算以外の"見えない財産"を増やそう」ということである。
#会社以外の帰属先を増やそう、という言い方もできる。
もし、自分が親を敬う姿勢や、自分の上の世代を無理をせずとも適切にケアしている姿を見せること、そしてそれを継いでくれる次世代を育成しているならば、不安ではないはずである。
「老後が不安だ」と言っている人は、「老後があるという幸せ」には気づいていない。そして、安心というのは手持ちや将来の金銭的資産との平衡関係で見ていることが多い。
日本経済新聞は、他の新聞よりはマシなのかもしれないけど、ちょっと引いた眼で見てみれば、「所詮、金融関係の"業界紙"」である。
金融モラトリアム法案に関しての論旨の支離滅裂さを見れば感じると思いますが。自分たちへの公的資金注入の時の論旨と真逆(笑)。
もちろん業界紙というのの存在は重要です(僕も展示会に行って各業種の業界紙を読むのは楽しみである)。なので、日経の社説は"業界紙として"は正当(?)。けれども当然ながら、「それに全てを委ねるべき」存在ではない。
じゃあ、三大紙か?といえば、それも違う。そもそも、「何かだけ」を選ぶという行為がおかしい。
今の世は極端に情報源が「マスコミ」に偏り過ぎで、自分の周囲でのちょっとしたやりとり、「ミニコミ」が減り過ぎているのが問題。まぁ若者の間では、mixiとかtwitterでちょっとずつ復活してるけどね。
ただ、ネット上であること、また、異質同士というより、同質な相手とのミニコミに偏りがちである。
もすこしこれがリアルの世界と繋がっていって欲しい。
なので、インフレだデフレだと議論する前に、日本の中にどうミニコミを復活させていくか、そういう話が重要と考えてます。
■ Give&Takeという言葉は順番も重要
それを書き始めると長いのでキーワードを一つだけ言えば、Give&Takeの順番には意味がある。どうGiveするか、ということ。日経含めて世の中の"情報"とやらは、どうTakeするか、の話に傾き過ぎていると思う。
もし、経済学者が、「金融」専門ではなくて、「経世済民」学者ならば、歴史上のそういう視点に目を向けていくべき、と思う。
そしてメーカーの社員は・・・「何を作ったらいいか」の時に、その製品を「買った人は何をTakeできるのか」ではなく、「買った人は周縁の人(特に家族外)何をGiveできるのか」
を重視すべきと思う。
■ 中庸という真理
でも結局これらは、新しい話でもなんでもなく、儒教でも仏教でも(実は聖書でも)言っている極端より中庸がいい、と言っているだけの話である。ExcellentでもPoorでもなく、ExtremeでもLackでもなく、so-soくらいがいいってね。